いつか手の爪を爪切りで切ってみたい人の独り言

オタクで根暗で引きこもりな人が徒然なるままに呟いています。

はてなブログを始めてみる

 昔から、何か困ったり嫌な事があると、おもむろに日記を書き始める癖があった。

 一人で書きながら、ぐるぐる考えて、だんだんめんどくさくなって、やがて日記を書かなくなる。そしてまた、日記を書く→止める、を繰り返すのだ。

 ノートに向かい、誰にも見せずに黙々と書いているのも、悪くない。でも、ついに行き詰ってしまった。詰んだ、というやつか。基本的に自己完結するタイプではあるが、自己完結した後に気分が浮上する事ができない時間が長すぎた。これでは一歩も半歩も前には進めない。そこで、あえてブログというものを書いてみる事にした。

 

 さて。

 きっと長年私が抱えている問題の鍵となるものは、「爪噛み」なのではないかと考えている。

 物心ついた時から手の爪を噛んでいた。爪を噛むと指摘される事が多くなり、自分でも恥ずかしいと感じるようになってからは、噛まずに爪でむしるようになっていた。爪と爪を引っ掛けて部分的に取っ掛かりを作り、そこからゆるっとむしる。時々むしり過ぎて痛くなるけれど、ほとんどの場合は適度にむしれてくれる。

 そんな事を繰り返しているため、30歳を過ぎた現在まで、手の爪を爪切りで切った事がない。足の爪も、時々手でむしっているが、思った以上に爪が硬く、指に刺さって出血沙汰になる事がままある。足の裏の角質も、むしる。こちらもむしり過ぎて時々血が出る。ちなみにカサブタもはがす。何年もはがし続けているカサブタが、何か所かある。多分この傷跡は、ずっと消えない。

 手の爪について、「止めなくては」と今まで何度か思い立ち、爪やすりと爪磨きとネイルオイルを買ってみた。それらでちょっと綺麗に整えてみると、なんだか気持ちがいい。鼻歌なんか歌っちゃうくらいに、気持ちが上がる。それなのに、私はまた爪をむしってしまうのだ。

 友達が「ネイルサロンでやってもらったよ!」と綺麗な爪を見せてくれるたび、自分には全く関係のない世界のように思えてしまう。たかが爪なのに、されど爪なのだ。それでも小さな頃よりだいぶましになった。指の肉が爪の上に被さらないラインを、守れるようになったから。それでもやっぱり、気が付くと爪の白いところがなくなっている。

 なんで自分にはできないんだろう。爪を伸ばす事くらい、2キロ痩せるより簡単なはずなのに。健康のために一日2リットルの水分摂取は続けられるくせに、お菓子だって我慢できるくせに、爪はむしってしまうのだ。

 爪噛みが自傷行為だという事は分かっている。自傷行為に関する原因も対策も、頭では分かっているのだ。何を隠そう、私の学位は心理学修士なのだ。そこそこ心理学をかじっている。でも、今まで心理職を名乗って勤務した事はないけれど。

 

 気づいた時には爪噛みが始まっていたが、おそらく最初は、単純に淋しかったという事で間違いがないように思う。

 幼少期の我が家は五人家族。両親、祖父母、私で暮らしていた。両親は共働きで、どちらとも金融機関に勤めていた。当時の金融機関は朝も早くて夜も遅かった。親は仕事が忙しく、祖父も働いていたため、日中はほとんど祖母と過ごしていた。幼稚園のお迎えも祖母、帰ってから一緒に遊ぶのも祖母、お風呂に入るのも寝るのも祖母と一緒だった。裁縫も折り紙もあやとりもおはじきも、三つ編みだって祖母に教えてもらったのだ。もしかしたら、私は祖母と過ごした時間が一番長いのかもしれない。また、近所には祖母の姉妹などが何人か暮していた事もあり、おば達にも大変お世話になっていた。そんな愛情いっぱいな中で暮らしていても、きっと淋しかったのだと思う。

 両親は土日祝日は家にいて、土曜日の幼稚園のお迎えは、両親揃って来てくれた事を覚えている。日曜日は親子三人でお出掛けをする。欲しい物はあれこれ買ってもらう。わがままいっぱいに育てられていたようなものである。ちなみに真冬にイチゴが食べたいとか、真夏にみかんが食べたいとか言い出すようなヤツだった。私は女ではあるが、こいのぼりを欲しがり、買ってもらった事は今でもたまにネタにされている。本当に、自分が親だったら間違いなくそんなお願いは却下するだろうし、何ならしつけと称した体罰すらしているかもしれない。しかし、うちの両親は偉かった。我慢強く私に対応してくれていたのだ。当時の両親は、今の自分とそう歳が変わらないはずだが、随分と出来た人たちである。 

 それでも淋しいものは淋しかったのだ。きっと。

 その昔、祖母が何気なく私に言った事がある。

「多分、お母さんは、焼きもちを焼いているんだよ」と。

 口を開けば「おばあちゃん」。何をするのも、祖母と一緒。おそらく、世間的に、母親が担っているであろう役割を、祖母が代わりに担っていたからだ。実際に母親は、同じ屋根の下で暮らしているにも関わらず。

 あの手この手を使って、娘を振り向かせようと母は奮闘していたのかもしれない。なんて不器用な人だったんだろう、と今なら思う。物を買ってくれなくても、一緒にいる時間が少なくても、ぎゅっと抱きしめて、「大好きだよ」とか「宝物だよ」とかベタな言葉を言ってくれるだけで良かったんじゃないだろうか。おしゃべりで、口から先に生まれたような人だったのに、肝心な事は言葉にしない人だった。”だった”という過去形なのは、数年前に病気で他界しているからだ。奇しくも、母が亡くなる少し前に、祖母が他界している。祖父はもっと前に他界しているが。

 母と娘が微妙な関係で過ごしていた我が家に、やがて波乱が起こる。

 弟が生まれたのだ。

 私が小学校二年生の夏に、弟が生まれた。

 ただの弟ではない。ダウン症候群という染色体異常の障害を持つ、弟だ。

 これまで私は、弟の存在は何となくぼやかしていて、障害がある事はほとんど公言していなかったが、なんせここはブログだ。匿名みたいなものだ。堂々と言ってみる。

 うちの弟、障害者なんです!!

 もしかしたら、兄弟に障害がある、というのはあまり珍しい事ではないかもしれない。どの家庭にも、それぞれ問題はあるし、我が家の場合がそれだった、というだけの事だ。何も悲観する事は…ない。

 あんなに仕事人間だった母は、きっぱり会社を辞めた。そして、西に東に、弟の療育のために走り回っていた。彼女の世界の中心は、弟になった。同じ境遇の母親たちと、育児サークルのようなものを立ち上げ、勉強会だのなんだのと、精力的に活動していた。

 更にびっくりしたのは、弟をぎゅーっと抱きしめて、「可愛いな」「お母さんの宝物だよ」とかなんとか言っちゃってる姿をしばしば見るようになった。弟が二十歳を過ぎても、その光景は見られていた。

 え? なに? そういう事、できんじゃーん!!!!!!

 勘違い? 私、勘違い?? 

 家庭内では、弟とそれ以外の家族に対する接し方も、声色から違う母。

 これはあくまでも、独断と偏見に満ちた個人的見解である事を前提に言わせてもらいたい。

 障害児の母親って、”障害児”っていう新興宗教にのめりこみがちじゃないか?

 謎の使命感、正義感、どこから湧いてくるのか知らないエネルギー。

 聞けよ、人の話!見てみろよ、周り!みたいな事がよくあった。

 うちの母親に限らず、である。

 あくまでも、私個人の意見。別に悪口ではない。けど、そう感じる事があるよ、っていう話だ。

 まあとにかく、彼女にとっての一番の重要事項は、弟だったのだ。それは母が亡くなる直前でも変わらなかった。

 自宅療養を続けていた母が急変し、入院したのは亡くなる一週間前。病院では、意識がもうろうとし、時々気が付く、という状態を繰り返していた。気が付いた時に口にするのは、弟の事ばかり。父の事も私の事も、彼女の口からは聞かれなかった。

 母上、お忘れではなかろうか。あなたの娘の誕生日が、間近に迫っている事を。

 娘の誕生日よりも先にある、弟が通う事業所での旅行についてしきりに気に掛けていたのは、なんだか切なかった。病室でカレンダーを見ながら、「旅行、楽しみにしてるから」と二週間後の弟の予定を気にする母。

 ちょっと待ったあああああああああ!!!!!

 今、何て言った?よく聞こえなかった、みたいな感じであった。

 今週、あなたの娘の誕生日があるんだよ。

 いや、私もいい歳だけど。誕生日を楽しみにする歳でもないけれど。

 これにはちょっと正直、びっくりした。

 母の死については、また別の機会に書いてみたいと思う。

 

 母との関係は、結局ぎくしゃくしたままだった。

 表面上は上手くいっているように見せかけていた。

 でもやっぱり、私たちはお互いに探り探り、おそるおそる接していたのだ。

 ぶつかって壊れるかもしれないと、おびえていたのかもしれない。

 もし、というのはないけれど。

 母親との関係がもっと上手くいっていたら、私の爪は綺麗だったんだろうか。

 やっぱり私の努力が足りなかったんだろうか。

 心理学を長々と勉強していたくせに、自分の問題には向き合う事を避けていたのがダメだったのだ。

 問題に向き合う事を避けていたから、心理職として働く覚悟ができなかった。

 職業だけの問題ではない。

 ここで向き合わないと、きっと多分、何もかも前に進めないと思った。

 なあなあで、自分をだましだまし過ごしてきたけれど、やっぱり辛くなってきたのだ。

 自分の気持ちに折り合いをつけたら、ピカピカの綺麗な爪で暮らせる日が来るかもしれない。

 というささやかな願いを込めて、書き綴っていく。